近江歴史回廊倶楽部

行事の詳細


 近江の城郭「観音寺城」の探訪


前日来の雨と台風並み強風の悪天候が漸く治まり、朝方には薄日が差込む2009年11月12日(木)、事業部会第4回例会と城郭サークル第3回例会の共催事業に33名の参加を得て行われました。

五個荘観光センターに集まり、案内してくださる中井均先生とおちあって自家用車に分乗し、繖山(きぬがさやま)頂(433m)近くの観音正寺駐車場まで林道を登り、繊山全域に広がる山城遺構探訪の脚力余力を残すことにしました。(一般的な登山道として安土より桑実寺経由の石段道があるが健脚向き)

 観音正寺境内で中井先生及び事業部会より、この城郭が中世山城として傑出した規模を誇り、礎石造りの遺構から偲ばれる栄華さ、又佐々木家の栄枯盛衰など総括的レクチャーを受ける。
 佐々木氏は宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする宇多源氏の一族系譜で、興隆の原点は平安時代末期の源平合戦に参加したその戦功から近江国守護に任じられ、以降400年にわたって佐々木氏の総領家が代々近江守護を務め権勢を誇った。

同族には湖北の京極氏、湖西に高島氏など男子兄弟が所領分割し独立するが支配権をめぐり幾度も争いが絶えなかった。 永禄11年(1568)織田信長の侵攻に際し観音寺城を放棄逃げ去り開城した。その後隣接する安土山に信長が安土城を築城(1579)するに当って一部築城資材を転用され観音寺城は歴史的役割を終えたようです。
 観音正寺より少し登りつめると本丸跡に辿り着く。丁度紅葉の頃で2,000uの広い削平地の屋敷跡は点在する礎石や、枯葉の絨毯が敷き詰められて美しい景観を呈していました。 

本丸の礎石建物は風雅な御殿風と推定されています。敷地の周囲は石垣及び土塁で囲われ、虎口付近の石垣高さは3m程もあり、排水用の水路や、石牢のような太夫井戸と言われる大井戸を見うけました。

尾根伝いに大手道を少し南下すると平井丸跡があり1,700uの敷地で石垣・石塁も規模最大の曲輪跡で虎口の石段等は幅広く立派に残っている。

更に尾根を南下すると池田丸跡に辿り着き2,700uの広い削平地は石塁・土塁で囲われ、最南端の位置から御屋形へ通じる城戸口となっていた。

 観音正寺に一旦立ち帰り、寺境内で昼食をとり、寺参拝をする。 観音寺城跡の中央に境内を構える観音正寺は、西国三十三所観音霊場の第32番札所で、寺創建には正徳太子がこの地を訪れ人魚と魚に係る伝説から、観音像と伽藍となったと言われています。 

現在の本堂は平成5年に焼失した旧本堂を平成16年再建落慶した真新しいお堂で、本尊千手千眼観世音菩薩像は白檀に刻まれた六6.3m高の像で白檀素材(23t)をインドから求める際の苦労話を住職から伺いました。西国三十三所観音霊場札所の秘仏特別公開の幸運な機会に出会い、胎内秘仏像を拝観できました。
 午後から観音寺城に再登城し、丁度観音寺城の鬼門方向で東端に位置する布施氏の居館淡路丸の曲輪跡に向かう。東西43m南北50mの土塁と崩れかけた石垣で囲まれ、削平地内に井戸も見られた。

他にも石を割るための「矢穴」痕のある石を組んだ石垣や佐々木城址の碑など、たくさん見て廻ったがそれでも、全体の10の1 位しか見ていないとのことでした。城跡は道が複雑で個人では迷いそうな所です。先導者と仲間がたくさんいてこその楽しい有意義な一日でした。

                                                     (楢原)





      

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