近江歴史回廊倶楽部

行事の詳細


 白鬚神社、鵜川四十八体石仏等 高島周辺の史跡探訪
 


 バスはJR守山からびわ湖大橋経由でJR堅田を経て高島市の南端、湖中に鳥居が立つ[白鬚神社]に着く。ボランティアガイドの方が2名、午前中の案内をしてくださる。

背後の山が迫る地形のためか、昔から街道の難所であったと考えられ、神社の御祭神は導き(道案内)の神・猿田彦命であり、近江で最古の大社といわれる。
現在の社殿は太閤秀吉の遺命により秀頼が片桐勝元を奉行として1603年に造営され、1938年には重要文化財に指定されている。境内には芭蕉の句碑「四方より花吹き入れて鳰の湖」や、与謝野鉄幹・晶子、紫式部の歌碑などがある。

次に[四十八体石仏群]にむかう。1553年佐々木六角義賢が亡母呉羽御前の追悼のため、観音寺城から見て西に当たるこの地を西方浄土に見立てて石仏を建立した。

現在33体在るが、残りの13体は坂本に在り、あとの二体は1987年に盗難に遭って行方不明となっている。前に並んでいる石仏に寄り添っているように見えるものもあり、「ささやき仏」と呼ばれている。

次は[大溝城跡]にむかう。乙女が池(内湖)のそばに石垣が残っているが城というには小さなものに思える。しかし、古代から勝野津として栄え、織田信長の安土城を中心としたびわ湖の軍事・交通の要衝の、水城のひとつであった。

1619年より分部光信2万石の城として明治維新まで続いた。[円光寺]は大溝藩主分部家の菩提寺である。ガイドのお一人が分部家の子孫で、墓所で詳しいお話を聞き書状なども見せていただいた。

[水尾神社]の御祭神は第11代垂仁天皇の皇子・磐衝別命と第26代継体天皇の母・振媛命である。磐衝別命は古代三尾族の祖先神である。神社の広い境内には宝鏡印塔や宝塔があちこちにあり、立派な石組みの庭の石は古墳の石を転用しているようにみえる。
このあと[道の駅藤樹の里あどがわ]で昼食。

 午後はまず、[高島歴史民族資料館]に行き、館内での説明班、[鴨稲荷山古墳]に行く班の二手に別れ、資料館学芸員の案内で交互に見学する。

古墳は1902年に県道改修工事の際、発見された未盗掘の前方後円墳。全長60mの周濠を持ち後円部の横穴式石室には大きな家型石棺が納められていた。

石棺は奈良の二上山の白色凝灰岩で出来ている。石棺の外側はベンガラ、内部は朱が塗られ、石棺内には金銅製の冠や靴、装身具、大刀などが、石棺外には馬具・土器類が納められていた。

これらは今、東京国立博物館にあるが、高島資料館内にある複製品で見てもすばらしい華やかなもので、当時の金工品製作技術の高さに驚かされる。
被葬者は530年に死亡した40代後半の男性で三尾氏族長ではないかと考えられている。

[天皇橋][胞衣塚]を通り、[安閑神社の神代文字の碑][鶴塚(満願寺石造宝塔)][石敢当(民間信仰の魔よけ石造物)]を見て、[中江藤樹生誕地]をとおり[玉泉寺]に着く。

玉泉寺は石仏の多い寺である。本堂の右手前の大きな椿の木の下に結跏趺坐した大日如来を中心に四仏が並び、その近くにもいくつもの石仏と宝塔・層塔がある。
しかし、もっと驚いたのは本堂裏手の墓地である。入り口に鳥居があり、その奥に続く道の山側に墓が多くあるのだが、墓の後ろに結跏趺坐した如来と思われる石仏がずらーっと並んでいるのである。道の奥に明治まで、大きな寺と神社があったそうで鳥居と石仏はその遺構とのことである。

[田中神社]は明治までは「牛頭天皇」と称し田中郷約300戸の総氏神である。御祭神は建速素戔鳴尊、奇稲田姫尊、八柱御子神を合祀する。田中山の麓にあるが境内は高さがあり見晴らしがよい。

田中山には[田中王塚古墳群]があり、今も発掘が続いている。古墳群の南はしの発掘現場を見学し、その上にある最大の古墳「王塚」の周りを廻る。

継体天皇の父・彦主人王御陵と伝えられ宮内庁の陵墓参考地である。山を下っていくと[三重生神社]があり、振姫が継体天皇を出産する時にもたれたと伝わる[安産もたれ石]がある。今も安産祈願に多くの妊婦が訪れるという。

 午前10:20に白鬚神社に着いてから16:30頃まで内容の濃い史跡探訪の例会であった。湖西にはまだまだ歴史ある興味深い伝説と史跡が多くある。素朴で珍しい祭りも多くあるのでもっともっと巡り歩きたいものである。

 (中田)






      

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