近江歴史回廊倶楽部

行事の詳細


 湖西、堅田と小野の史跡を訪ねて
 


 心配されていた天候も、幸い晴に恵まれ少し暑いぐらいの陽気であった。
堅田駅を定刻 9:45、 この度、ガイドを引き受けて頂いた湖族の郷資料館館長の岡本氏の先導で、本堅田に向け出発した。

途中 淡海節で一世を風靡した、志賀廼家淡海の顕彰碑を見て後、ヴォーリス堅田教会に立ち寄り湖族の郷資料館に到着。資料館では、館長より堅田の歴史について説明受けた。堅田の歴史を顕すキーワードを列挙すると 琵琶湖湖上交通の要、上乗り・関、湖族の郷、諸浦の親郷、殿原衆・全人衆、堅田と一向一揆、芭蕉の本福寺、祥瑞寺、下鴨神社の御厨、延暦寺の荘園、堅田の大責、信長・光秀・秀吉、・・・等興味の尽きない内容。




 この後、本福寺、祥瑞寺、光徳寺、伊豆神社と周り、浮御堂ヘ。
この寺は正式には海門山満月寺、如何にもこの地にあった風流な名前である。竜宮城を想い起こさせる唐風の楼門、萬月の夜には月光に照らされて山内の湖岸では狸踊りでも催されているような、一種ユーモラスな情感を想い起こさせる。

堅田は風光明媚で古来文人墨客を誘って止まない。特に芭蕉は弟子達と伴に何度も訪れ、詠まれた句の記念碑があちこちに建てられている。
浮御堂にも「鎖明けて月差し入れよ浮御堂」の芭蕉の句碑が立つ。月に照らされた御堂と輝く湖面、それに松が影を落とし東に開いた堂内では灯明に仏の影が静かに揺れている。  時折、漣の音がより一層静けさを漂わせる。 こんな情景であったのでは・・・と稚拙な頭で想像。


この満月の翌日の十六日に芭蕉と弟子の一行が堅田を訪れる。
これが有名な「堅田十六夜の弁」である。我々も浮御堂を出て十六夜公園へ。陽光が眩しい琵琶湖浮御堂と「堅田十六夜の弁」の句碑をバックに集合写真。

居初家へ途中で琵琶湖哀歌歌碑。ボタンを押すと、哀愁を帯びた旋律が堅田に町に流れる。一同懐かしそうに合唱。居初家は時間の関係で内部に入らず湖岸より見学。
ところに生垣があり、その向こうに茅葺の母屋見えたこれが天然図絵亭の座敷なのだろう。

眼前に琵琶湖、対岸の三上山を借景にした庭を垣根越しに覗き見る。堅田漁港の芭蕉の句碑を見て、出島(デケジマ)灯台に至る。
今は直ぐ北に琵琶湖大橋迫り、近代的な湖岸の情景を作っているが、この辺りは琵琶湖一番狭い所で、浅瀬も多く遭難事故が絶えなかったと聞く。この灯台の光を色んな思いで眺めた人たちが居たのだろう。

野上神社では新田義貞と勾当内侍の悲しい物語をしのび、「道の駅米プラザ」に到着。到着時間 12時25分 朝から4キロ、所要時間2時間40分、 米プラザで弁当、天氣よく湖岸を通る風が気持ち良い、ほうばるお握りも殊のほか美味しい。

食後、小野へバス移動、ほんの短時間なのに午前の心地よい適度の疲れもありほっとした数分であった。
JR小野駅の北西にある唐臼山古墳公園に到着。夏場に向かい草刈作業中。大津市教育委員会文化財保護課の小熊学芸員さんと落ち合い、古墳の頂上付近の眺望の良い所で、小野の景観について説明を受けた。

 小高い丘の向こうに琵琶湖が広がる少し山手に目をやると比良連峰が連なっている。小熊氏曰く、山と湖の間平野(野)が狭い(小さい)から小野と言ったのでは?。こうして見ると、小野一族は、当地を本貫地とする土着の豪族で、この地の状況から小野の姓名乗ったのではないか言う説には納得できるような気がする。

 その後、ヤマト王権の中央から、和邇臣系の部族が、鉄を求めてこの地に入って来て、いまの和邇地方を支配しその支配権が小野にも及んだと考えられる。遣隋使の小野妹子はこの部族から輩出された優秀な官人である。


小野妹子が著名になり小野の地に入ってきたので小野の地名が出来たのではなく、小野の地にすんでいた妹子が有名になったのである。小野妹子神社の説明を受けた後,住宅地の中を抜けて里道を通り小野道風神社へ。

 神社は妹子神社とは一つ谷を隔てた小高い丘にあった。神社には、日本三蹟の一人である、小野道風の逸話を伝える柳も植えられている。何故 花札に道風、蛙、柳が画かれた札があるのだろう?この神社も古墳の直ぐそばにあり、これから訪れる小野神社の、飛地境内摂社の岡宮と聞く。 

神社の横から、竹林へ抜け山道を少し下っていくと石神古墳。 この辺りは少し高台に成っており、古墳が数多くある。やはり古代の墓は、風が通る小高い丘が理想的であったのであろう。

小野神社に到着。何故か摂社の小野篁神社のほうが、参道の正面にあり大きい。小野一族は、篁の時代に中央の政権で、重要な地位を占め主張も通った。
小野神社の社格もこの時代に上がり、神社の春秋の祭祀には、一族の五位以上の官人は太政官符を持たずに往還できた。

小野神社は、古来当地の産土神米餅搗(タガネツキ)大使主命を祭り、菓子の神様として崇められ、現在でも全国の菓子製造組合から参拝者が多い。一説にはタガネツキは、鏨とも見られ製鉄関係の鍛治師(和邇一族)との、関連も考えられる。
特にこの地が、和邇一族の支配していた地域であり、比良山麓には製鉄遺跡も、数多く出土している。

 和邇川を渡り、少しさか上った処に、最終目的の 天皇神社 がある。この神社の名を、初めて聞いた時「天皇」と言う名称を持つ神社が、あって良ものだろうかと。天皇とは王権を持つもののみが使える名称と思っていた。

この神社は、かって牛頭天王社と呼ばれており、八坂神社同様 素戔鳴尊=牛頭天王を祭っており、最勝寺の鎮守社として、祀られたと言う。

和邇は、平安京への北の入口 和邇堺として重要視され、四堺祭(疫病・疾疫など都城への侵入防ぐ祭祀)等が、都から勅使・陰明師等が来てなされた。天皇神社は、これと同じ鬼門鎮守の役割を果たしていたのだろう。  本日の探訪予定総て完了したので小熊先生に厚く御礼を申し述べ一同和邇駅に向かった。

和邇駅到着午後4時40分 予定どうり無事終了。
午前の部 岡本館長、午後の部 小熊学芸員の説明・案内が丁寧で解り易く、又会員よりの質問に対しても、丁寧に詳細にお話頂き、充実した楽しい見学会で、色んな思い出を胸に、帰路に着きました。

 
 (金沢)






      

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